真田氏とはどんな一族だったのか?!

真田

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真田信繁は、永禄10年(1567年)に真田昌幸の次男として生まれたとされています。

母は正室の山手殿、兄は松代藩の初代藩主となる信之です。

では、信繁が生まれた真田氏とはどのような一族だったのでしょうか。

真田氏の本拠地として有名なのは信州上田(長野県上田市)の上田城ですが、

この城は信繁の父・昌幸によって1583年(天正11年)に築城されました。

真田氏の発祥の地とされる真田郷(旧・真田町、2006年に合併し上田市の一部に)

があるのは上田市の市街地から北にいったところです。

真田氏はもともとはここ真田郷を拠点とする信濃国小県郡の国衆に過ぎませんでした。

その真田氏の勢力を拡大させ礎を築いたのが信繁の祖父の幸隆です。

幸隆は甲斐国の武田晴信(信玄)に仕え、海野平合戦で失っていた

失地を回復するとともに信濃先方衆として活躍し武田二十四将にも数えられています。

信繁の父・昌幸は幸隆の三男で家督の相続権は無く、武藤家に養子に出されていました。

しかし、長篠の戦いに参戦していた長兄・信綱と次兄・昌輝が相次いで討死したため、

昌幸が真田氏に復帰して家督を相続することになったのです。

その後、天正10年(1582年)に主家であった武田氏が滅亡すると

昌幸は生き残りをかけ、主家を次々と代えていきます。

まず、織田信長に恭順。しかし、同年6月には信長が本能寺で討たれてしまい、

信濃の国内では越後の上杉、相模の北条、三河の徳川による武田遺領を巡る争い

(天正壬午の乱)が起こります。

昌幸は三つ巴の争いの中、巧みな立ち回りを見せ、ついには次男・信繁を

上杉景勝に人質として送り従属するとともに、第一次上田合戦で徳川家康と

戦い撃退に成功しました。

そして、天正13年(1585年)には、人質だった信繁が上杉景勝のもとから、

大阪城に出仕し豊臣秀吉に臣従することになります。

このように真田氏は弱小勢力としての厳しい立場にあり、

信繁もまた有力者の人質として青年期を過ごさなければなりませんでした。