【大河ドラマ】真田信繁と徳川家康の対決上田合戦


真田信繁と徳川家康との因縁 第一次上田合戦

大阪の陣にて敵対することとなった真田信繁と徳川家康。両者の間には信繁の父・昌幸の代からの因縁がありました。
 天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺で横死すると、信濃では旧武田領を巡って、上杉、北条、徳川による三つ巴の争いが繰り広げられました。昌幸は、北条から徳川、そして上杉へと主家を代えて危機に対処していきます。天正15年(1582年)7月に徳川氏に帰属していた昌幸は、真田領であった沼田城を北条方に明け渡すように徳川家康から命じられたことに不満を抱き離反し上杉景勝に従属。昌幸の離反を知った家康は、鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉に約7000の兵を与え、上田城への侵攻を命じました。
 閏8月2日に徳川勢は上田城への攻撃を開始します。兵力は約7000の徳川軍に対して籠城する真田方は僅かに1200。攻め寄せた徳川勢は、あっさりと二の丸まで侵入することに成功します。しかし、これは昌幸の作戦でした。真田勢は徳川勢を二の丸まで引き寄せたところで反撃を開始。突如、大石や巨木が投げ込まれ、鉄砲玉が乱れ飛びます。徳川軍は大混乱に陥り敗走。さらに、徳川軍の敗走路には千鳥がけという柵を設置され退路を遮断されました。それでもなんとか城内から脱出して神川まで逃げた徳川軍の前に、真田軍が設置していた人口堰が外され川の水かさが一気に増加。川を渡れず右往左往する徳川軍に真田軍が襲い掛かりました。結果は真田方の圧勝に終わります。徳川軍が1300人もの戦死者を出す大損害を受けた一方で真田方の死者は僅かに40人ほどだったそうです。
 その後も、上杉・真田の連合軍と徳川軍の小競り合いは続きましたが、11月には徳川家重臣の石川数正が豊臣方へと出奔し完全撤退することななりました。その後、昌幸は豊臣秀吉に臣従することになりますが、第一次上田合戦を契機にして真田氏は小領主ではなく大名として認知されるようになります。

関ヶ原の戦い 第二次上田合戦

 慶長3年(1598年)、秀吉が死去し、天下の情勢はにわかに急変しました。そして、慶長5年(1600年)6月、徳川家康が会津の上杉征伐のために兵を起こし大阪を離れた隙に、石田三成が決起。徳川家康を中心とする東軍と石田三成を中心とする西軍が天下をかけて関ヶ原で激突します。
 このような事態に対して、真田氏は昌幸と次男の信繁が西軍、長男の信之が東軍にそれぞれ従うという策をとります。東西どちらが勝ったとしても一族が存続できるというしたたかな戦略でした。同年8月24日、3万5000の兵を率いた徳川秀忠は宇都宮城を出発し、中山道を通って西へ向かい、その途上にあった上田城に対して攻撃をしかけます。
 秀忠にとって誤算だったのは、昌幸・信繁父子が降伏に応じなかったことです。それどころか、秀忠の降伏勧告に対して昌幸は時間稼ぎをして返事を数日の間先延ばした挙げく、「準備ができたので一戦交えよう」と秀忠を挑発します。徳川軍3万5000に対して真田軍3500という圧倒的な兵力差があったこともあり、秀忠はまんまとその挑発に乗ってしまうのです。9月6日に徳川軍は、上田城の周辺で収穫時期にある稲を刈り、真田方を挑発します。すると、挑発に乗って真田軍は城を出て来ました。徳川軍の思惑通り……かと思われましたが、徳川軍が攻撃を加えると真田軍はすぐに城内へと退却してしまいます。勢いに乗った徳川軍が追撃をしかけると徳川軍に伏兵が襲い掛かり大混乱に陥り敗走。またもや、徳川軍は昌幸の計略にしてやられたのです。
 秀忠は、上田城攻略に手間取り10日ほど時間をロスしてしまい、さらに悪いことに道中の悪天候にも見舞われます。結局、秀忠は9月15日に行われた関ヶ原の戦い間に合わず、天下分け目の戦いに遅れるという大失態を犯してしまったのです。結果的には関ヶ原の戦いでは東軍が勝利し、西軍に味方した昌幸・信繁父子は紀伊九度山へと配流になりますが、信之には真田領の保有が認められ真田家は存続しました。